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2021年03月14日

活動報告

3/6フォーラム 伊藤亜紗先生ご講演レポート

3月6日第六回タッチケアフォーラム
身の医療研究会 講演報告
(フォーラム運営をスタッフとしてお手伝いくださった阿久津若菜さんがご報告レポートを書いてくださいました。ありがとうございます。NPO法人タッチケア支援センター)

『手の倫理、“ふれる”と“さわる”』
伊藤亜紗先生の講演報告
(午後4時~5時10分)

 午後の部、3人目の登壇は伊藤亜紗先生(東京工業大学准教授)。2020年に上梓された『手の倫理』(講談社選書メチエ)は、今回登壇の先生がたからも「この本にインスパイアされました」との声がきかれ、「ふれる」と「さわる」の世界の探求が、本大会を象徴する大きな流れに。伊藤先生のお話は、研究・実践・そして日常的な体験のなかでの「タッチ」を、新しい角度から“ひらく”ものとなりました。

 

★写真1:登壇の先生方との間で「ふれる」「さわる」を語りあう

 

◎英語の「タッチ」を、日本語の「ふれる」と「さわる」に分けると

伊藤先生のお話はまず、「ふれる」と「さわる」の違いから始まりました。

英語では触れることを一括りに「タッチ」と呼びますが、日本語では「ふれる」と「さわる」に分けられる、と伊藤先生はいいます。

 

それは、

・ふれる:相互的/人間的

・さわる:一方的/もの的

という関わり。たとえば傷口に「さわる」のであれば、さわられた相手の痛みやようすを感じながらの行為ですが、傷口に「ふれる」はふれる側の都合だけ、相手を加味しないものだといいます。

 

ただし西洋医学での医師−患者という非対称な関係性であれば、“触診”という言葉があるように、「ふれる」ことで患者の臓器などの状態が診られます。「お医者さんが“さわる”と、ちょっと湿度が高め、湿っぽい感じがしますよね」。

ただし東洋医学では“切診”といい、相手がくすぐったがったりする反応も「緊張しているのでは」と考慮に入れるのが、ホリスティックな(=人間を全体性で観る)診断手法のひとつ。

「ふれる」と「さわる」の適切さは、折々の場面で異なるのです。

 

 

◎1本のロープでつながれた「信頼」の奥行き

伊藤先生がこの「さわる」と「ふれる」に興味をもち始めたのは、ご自身の研究で、視覚障害者のランニングを伴走する「ブラインドラン」を体験したことからといいます。

 

ブラインドランでは、伴走役の晴眼者と、走者である視覚障害者は、互いに1本のロープの両端をもって走ります。ロープを介してつながれた相手から受け取る情報量はとても多く、目の前に坂があると、見えないはずの走者にも「あ、もうすぐ坂がある」と伝わるほど。坂の前で一瞬、伴走者が「うっ」とひるむ感覚が、ロープを通じて走者のなかに伝わってくるのだそうです。

 

実際、伊藤先生が目かくしをして走者役を体験すると、最初は見えないことがとても恐かったものの、相手に自分をあずけて走る経験は、とても快感。「これほどまでに相手を信頼していいものなのだ」と、今まで知っていた「信頼」のずっと先にある奥行きを感じたといいます。

 

これに対し、似たような場面で使われるのに、まったく正反対の意味をもつのが「安心」です。たとえば認知症の方にお弁当を渡し、食べる場面。なにかあってはいけないという思いから、すぐ周囲の方が、お弁当をそばに運び、箸を割り、食べるまでの行為の折々で、配慮してしまうことがあるといいます。でも当事者であるご本人は、食べものをこぼしても、うまく食べられなくても「自分でやりたい」。

配慮はたしかに必要だけれど、相手への「信頼」ではなく「安心」をとることで、さまざまな当事者のかたの可能性や冒険の機会が失われてしまう、といいます。

この「安心」と「信頼」の齟齬については、講演最後の対話のなかでも、大きなテーマとなりました。

 

 

◎「ふれる」とは、「生成モード」の体験

では「さわる」と「ふれる」の根本的な違いとは何なのでしょうか。

伊藤先生はそれを、1枚の概念図で示します。

 

★写真2:コミュニケーションの伝達(さわる)と生成(ふれる)

 

 

・さわる=伝達モード。メッセージは発信者のなかにある/一方的/役割分担が明確

・ふれる=生成モード。メッセージがやりとりの中で生まれていく/双方向的/役割分担が不明確

 

ふれる相手/ふれられる相手との間には、どちらが主体とも客体ともつかずメッセージを交わしあい、互いの渦のなかでぐるぐると、関係性(コミュニケーション)が創り出されます。

 

その例として、砂連尾理さん(ダンサー、振付師)と、熊谷晋一郎さん(医師、研究者。脳性まひ当事者として『リハビリの夜』などの著作がある)との、棒を通じてつながる創作ダンスの例があげられました。

 

★参考動画:BONUS第3回超連結クリエイション(棒を使ったコミュニケーションは動画35分頃〜)

https://www.youtube.com/watch?v=atE18l2Zkcs

 

そこでは、棒を使って接続することで、熊谷さんは砂連尾さんの「(からだの)材質」を感じ、砂連尾さんは熊谷さんが「いっけん止まって見えていたからだが、実に微妙な動きをされている」ことに驚きを感じたそうです。

日頃、わたしたちは視覚をメインにしているため、他者との距離はどうしても「ゼロ」までしか近づけません。でも触覚を媒介にすることで、相手の内側に入り込む「距離マイナス」の感覚が生成されたのです。

棒を通じて互いに「ふれる」ことで、見た目ではわからない「からだの性格」が立ち現れ、からだの奥にある意志や衝動までも感じとることができたのでした。

 

相手を感じる五感の切り口を変えると、その人の違う面が見えてくる。そんな、ひとりの人の中にある「多様性」を認め、社会的な役割を固定させないことで、他者との分断を避けることができるのではないか。

こうした「ふれる」ことから広がる可能性もお話くださいました。

 

 

◎手が語ってくれること〜体験のシェアタイム

伊藤先生のお話を受けて、参加者が数名ずつにわかれてお互いの経験をシェアする時間も、もたれました。そこで渡されたテーマは「あなたの“手”の記憶について話してみましょう」というもの。

さらに、できるだけZoomの画面上に手を入れるという「実験」もしてみてほしい、手は無意識的な存在であり、思わず知らず、その人自身を雄弁に語り、顔よりも“表情”があるから、とも。

 

そして手の記憶について語る参加者に、伊藤先生は折々、質問を交えながら丁寧にインタビューをされます。

そのやわらかな声に誘われるように、飼っていたペットが死んで冷たくなるからだに「ふれた」手がいつまでも汗ばむほど熱かった体験や、からだが弱かった子供の頃「偉かったね」といいながらさわってくれた医療者の手の感覚が今も残っていることなど、手から触発される記憶の多様性をシェアすることができました。

 

 

◎コントロールし難きものとしての「触覚」〜登壇の先生方との対話

最後に、今回登壇された先生がたを交えて、「ふれる」「さわる」についての意見交換がされました。

山口創先生からは「相手の気持ちを考えずに一方的にさわるのはよくないとおもっていたが、相手との信頼関係をベースにしていれば“さわる”モードもありなのでは」と、「さわる」モードのポジティブな意味を再考できた、とのお話がありました。

 

それには「触覚にはコントロールできないという一面もある」、と伊藤先生。信頼関係をベースに、他者と関わるのはベスト。でも、子供と遊ぶときに無意識の挑発に乗って本気で倒してしまった(!)、ご自身の経験をあげ「触覚のもつ、不意の暴力性」をわかり、仲間にすることが重要だと考えていると。

 

これには主催者の中川れい子から、「タッチの仕事をしていると、コントロールできるタッチしか想像できなくなっている自分に気づく。もっといろいろな“ふれる”、“さわる”があることを忘れてしまったら、人生がつまらなくなってしまう」というコメントもありました。

 

最後に藤本靖先生から、「ふれる」「さわる」ことへの根源的な質問が。社会的に不確実性が高い今、特にセラピーでは「安心・安全」を担保するものになりがち。でもそこには常に「安心」と「自由」が並び立たないジレンマがあるといいます。

そこで必要になるのは「信頼」であり、それを社会や人間の手に取り戻すには? という投げかけでした。

 

そこに伊藤先生は「信頼とは根拠がないもの。その質問に答えた瞬間に、信頼できないものになりますよね」とおっしゃいます。ゆえに信頼とは、考えるものではなく、ある種「感染するもの」として、人から人へ信頼を伝播して力にする、熱みたいなものではないだろうか、と。

 

「触覚」という、五感の中でも動物的とされてきた感覚を取り扱うことで、本来のからだや、無意識下にある手の表情を呼び出し、ひいては今の「ふれられない」社会で失われた、根拠なき信頼を広げる力をもちうる。

人間性を回復させる可能性が「ふれる」「さわる」にあることを感じさせた、濃く深い講演となりました。

伊藤亜紗先生、ご登壇いただいた先生方、ご参加くださったみなさま、ありがとうございました。

(おわり)

 

 

レポート作成:阿久津若菜(web マガジン【コ2】編集者)